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トップページ>蘇る文化財〜棚橋家の大改修〜  
   


国の登録有形文化財に指定されている棚橋邸の改修工事を魚津に任せていただきました。
有松の情報誌『幹』にて 棚橋恭子様、建築家の三井富雄先生がこの改修工事について書かれた記事をご紹介します。
(棚橋様、三井先生ご了承のもと掲載しています。)

 

大改修を振り返って                    棚橋 恭子

 平成25年8月20日 丸二年間に亘る我が家の改修が遂に完了しました。   

 
改修後 外観                 改修後 待合

 当日、成海神社の宮司様により新しい棟札のお祓いとこの家の未来永劫の安寧を祈願し、祝詞を奏上していただきました。
思い起こせば、平成23年6月半ば、名古屋市の歴史町づくり推進室の栗並秀行様に大屋根の葺き替えをしたい旨、お電話したのが全ての始まりでした。その時は、土台まで替えるという大改修になろうとは露ほども思っていませんでした。
  そして、丁度その頃発足したばかりの「名古屋市歴まちびと」として、8月9日にはじめて建築家の三井富雄様を紹介して頂きました。三井先生は以前から有松と深くかかわりを持っておられ、その時同席していただいていた徳田和子前会長ともご面識がおありで、大変スムーズに話を進めていただくことができました。三井様のご推挙により工事は魚津社寺工務店が引き受けてくださることとなり、この三井・魚津コンビこそが今回の大改修成功の鍵となったのです。 家屋全体の調査の結果、肝腎要の土台の痛みがひどく、屋根替えどころか、まずは土台の修理が必要なことが判り、23・24・25年度と3年度にわたっての工事が決定しました。 私の生まれ育ったこの家は、明治9年創建の大井桁や・服部家の遺構で、築137年の明治初期の建物としての規範をなすものということで、平成21年5月に国の登録有形文化財の指定をうけました。これは徳田前会長のご尽力によるもので、名市大大学院芸術工学研究科教授の溝口正人先生をご紹介くださって登録申請に必要な調査をしていただきました。今回の改修にあたっても、学識者の立場で貴重なアドバイスをいただきました。
 平成24年3月より第一期工事が開始され、まず物置小屋と化していた二階の片づけから始まりました。ゴミの山ではありましたが、考えようによっては宝の山でもありました。創建当時の50本もの建具は、三井先生によって、改修成った部屋に適材適所再利用されて、古い建具のお蔭で部屋のたたずまいも大変に落ち着いたものになりました。

改修前 2階物置

改修後 2階物置
 昔、私の子供の頃に茶の間に置いてあった長火鉢も、そこは父の定位置で診療以外の時はいつもそこに座っていました。母の嫁入り道具の一つで80年間未使用で眠っていた螺鈿の丸火鉢、父の古いフルートや何に使ったか判らない医療機器などなど。私にとって一番嬉しかったのは、古いカルテの入ったダンボールの山の中から私の大学時代のすべてのノートの入った箱が見つかったことでした。母がまとめて大事に保管していてくれたことが初めてわかり、思わず涙が出てきました。この家は父の元気な時代には何度も部屋を改装していますから、その間にとっくに捨てられてしまったと長い間思っていたのです。本当にうれしく、懐かしく何十年ぶりに学生時代を想い出し、しばし作業の手が止まってしまい、忘れ去っていた世界へタイムスリップした時間でもありました。 二階の片づけが終わり、床下の大引きや根太の取り替えで想定外の腐蝕も次々と出てきて仕事量も半端でなく、3月末の期限を前に総監督の三井先生や現場監督の里中亮一さんは、夜を日についでの日々の大変な一期工事でした。

外からはわからない土台の腐朽
  平成24年12月からの第二期工事は、いよいよ屋根の葺き替えと建て起こしによる土台替えの大工事に入るので、24年12月22日に成海神社様による地鎮祭を行い、工事の安全のご祈祷をあげていただきました。         
私共夫婦、長男の嫁(長男は仕事を休めずやむを得ず欠席)、長男の息子の三世代が参列しました。工事中は家族も節目毎に現場に足を運んで、それぞれの立場での意見を出してくれました。
 主人は地下水の影響を殊のほか心配していましたので、地下水の水位調査も行いました。土台の腐蝕は経年変化によるもので地下水とは直接の関係の無いことが判り、安心して工事を進めることができました。  第二期から現場監督は里中さんから川譜、さんに変わりました。彼女は若き女性建築士、三井先生の厳しい指導によく応え、大工事の監督をよく務めました。長きに亘った大工事ですから、色々な難題や想定外の事態も起こり、急遽、関係者一同現場に駆けつけたこともありましたが、思いがけないサプライズもありました。工事中は色々な方々が見学にいらっしゃいましたが、その中に大井桁や・服部七左エ門家の10代目に当たられる御当主の服部幸三様と奥様が来て下さいました。これは三井先生の積極的な歴史感覚によるもので、単に家を改修して後世に遺していくだけでなく、その家で暮らした家族の歴史も調べていくべきと考えられ、服部家を訪ねていってくださったのです。ご夫妻は大変にお人柄のいい方で、その後も御親族をお連れくださったり、秋のイベントにもお友達ときていただきました。初対面のときでも不思議な親近感があって、とても自然な雰囲気でお逢いしたのを想い出します。これは、服部家と棚橋家の70年振りの歴史的対面の日になりました。
  もう一つの嬉しかったことは、裏の離れを父が作った時の大工の神野末吉さんのお孫さんが名乗り出てくださったことです。秋のイベントの最中でしたが、すぐ離れに案内しました。離れは昭和30年頃に建てられましたが、その当時の最高の材で実に丁寧な仕事がしてあると以前ある専門家が褒めてくださったことがあります。50年以上たった今でも建付けの狂いもなく、その為、改装の必要もなく、その人のおじいさんが建てて下さったときのままなので、本当に懐かしがって見ていかれました。  屋根替えだけのつもりで半年で終わるだろうと始めた工事がまさか土台まで替え、家全体の耐震工事にまでなるとは思ってもいませんでしたが、今ではやってよかったとしみじみ思います。

耐震格子壁
 行政の積極的な取り組み、溝口先生の的確なご意見、三井先生の卓越した指導力、それにこたえて下さった魚津社寺工務店の度量の大きさと大勢の職人さん達の技、現場監督の里中さんと川浮ウんの頑張り、これら無くして今回の大改修の成功はありえませんでした。厳寒の冬、酷暑の夏に耐え、長丁場にもかかわらず本物の仕事をしていただいたこと、私は生涯わすれません。  
 又、長期に亘った工事中、近隣の方々には大変な御迷惑をおかけしましたが、皆様、温かい目で見守って下さったことを本当に有難く感謝しております。

「棚橋家」の瓦紋(下がり藤)を創る

「大井桁や・服部家」の瓦紋を復元
 改修が終わった今、この家を今後どのように活用するか、どのように次の世代に伝えていくかという問題に直面していますが、色々な事例を勉強して決めていきたいと思っています。
                                   (平成26年2月 記)


棚橋家大改修工事を終えて            三井 富雄

 私が名古屋市歴史まちづくり推進室の栗並秀行さん・八木美帆さんと名古屋都市整備公社(現在:名古屋まちづくり公社)の若杉和秋さんに伴なわれ、「なごや歴まちびと(歴史的建造物保存活用推進員)」として棚橋邸にお邪魔したのは平成23年(2011)8月9日のことでした。
(1・2期を経て完成まで足掛け2年を要し平成25年8月20日に完成しました。)
歴史的建造物の専門家として改修のご相談に乗ることが私の役目でした。
 その時なんと徳田和子さんが、棚橋様の御相談役としてそこにみえたのです。15年程前私が有松まちづくりの会の会員だった時、服部豊・成田治・徳田和子さん達会員のみなさんを私の設計した丈山苑(安城市)にご案内したことがありましたが、それも記憶されていたのです。そのような出会いで徳田様のご推挙もあり棚橋様の御信任をいただき、棚橋邸の改修は順調に進みました。
当初改修工事にあたり、棚橋様とも協議し下記のように方針を決めました。

@建物を永く保存・活用できるように耐久性を更新する。・・・耐久性・耐震性の向上・設備の一部更新。特に屋根の葺き替え(土葺きから乾式桟瓦葺きにし、軽く)
A歴史的根拠に基づく改修とする。・・・“「棚橋医院の初期」を時代設定の基本に”
B有松の町家の規範として、年に何回か建物の一部を公開出来るように計画する。
C国登録有形文化財をどう修復・改修するか・・・良き指導を仰ぐ⇒名市大・溝口正人教授、県・市文化財関係者、市歴史まちづくり推進室栗並秀行氏などと小委員会をつくり、節目毎に改修方針と工事報告、現場視察によるご指導を得る。
D良い仕事は「良い人を組むこと」で可能となる。建築主・設計者・施工者の連携⇒施工者に葛將テ社寺工務店を選定。
E人脈を生かす⇒名大・古川准教授(構造)、石川俊六(設備・元竹中工務店)、 伊東正(構造・元竹中工務店)他

 棚橋邸は明治9年(1877)に建築され築137年、大井桁や・服部家の遺構であり、江戸時代の技術で明治の初めに建てられたもので、大改修は行われていません。従って目に見えないところがどうなっているか、心配がありました。
 工事中は、解体し想定外の構造・寸法・歪や傷みがあると、臨機応変に対応を検討・協議して進めたため、設計者は施工図・スケッチの作成と指示、施工管理者(第1期・里中亮一さん、第2期・川譜、さん・・・大学卒4年目)も施工図の作成や会社・職人との打合せ、人・モノの手配で日夜遅くまで大変な日々でした。建物は総じてとても頑丈に出来ていました。特に驚いたのは屋根で、庇部分は大きな丸太と竹を縄で巻きあげ土で塗り固めてあり、その上を杉皮で覆い、さらに和瓦を土葺きしていましたが、とても重いしっかりした防火構造になっていました。   

母屋南西庇…竹と木に縄を巻き土で固めてある
 工事には多くの難題がありましたが、棚橋様のご理解と魚津忠弘社長が気持ちよく引き受けてくださったおかげで、里中さんも川浮ウんも直接担当してくださった職人達も持てる技術を惜しみなく使い、良く協力してくれました。おかげできちっとした改修ができ、関係者の皆様に深く感謝しています。
 今後はさらにこの建物の歴史的変遷や謎(大梁の由来・施工方法、レンガの使用、天井の仕様など)を調べること、ひいては井桁屋、いげいち、いげじゅう、後藤邸などの建物の系譜・関係などもわかるといいなと思っています。
それと棚橋様と共に、この建物の文化的活用方法と具体的な維持・管理のしくみをつくることが当面の課題と思っていますので、ぜひ有松関係者の皆様のご指導をお願いしたいと思っています。

□ 有松とのかかわりについて
 もう50年以上前、私が名工大の学生だった時、師の城戸久先生(建築歴史)から「これからの民家建築は単体だけでなく、群・町並みとしての保存が重要だ、名古屋ではまず有松だ」と聞き、大府に住んでいたこともあって身近なところと感じたことがありました。
 ただ大学を卒業し竹中工務店に入社した昭和39年は東京オリンピックや新幹線の開業などがあり、日本はその後の高度成長期で仕事の中心は新建築であり、関心も薄れていましたので、長い間有松にはご無沙汰していました。
 しかし20年位前にそのことを思い出し、有松まちづくりの会に入り有松の歴史勉強会(確か月に1回程度)に時々通っていて、服部豊さんや徳田さんに知己を得ました。平成8年(1996)には名工大建築学科の非常勤講師として、学生に有松の活性化提案などを設計課題として学生と共に研究し、平成10年1998の絞祭りでは久田様のご紹介で有松小学校の体育館に「美術博物館計画(模型)」の学生作品を展示したこともあります。そのうち有松まちづくりの会の数名の方々を安城市にある丈山苑をご案内しました。またそのご縁で服部崇宅の改築、まどか有松(2012年・愛知まちなみ建築賞)の新築のプロジェクト・設計監修をさせていただき、さらにそれが棚橋邸につながり、有松に一層ご縁が深くなりました。

□ 「晩秋の有松を楽しむ会」について
 有松は400年に亘り東海道の昔の面影を残しながら、発展してきたまちであり、大都市に残る貴重な町並み・生活の歴史が残っています。その貴重な町並みを保存・活性化するためのきっかけとなるような文化的な行事を企画したものですが、この文化的行事により、有松内外の多くの人々に町並みや伝統文化の魅力を発見・発信して欲しいと思っています。この行事が年々受け継がれ、良き伝統文化が根付き皆さんに一層愛されるまちになるようにと願っています。

 佐々木丞平(京都国立博物館長)氏は 文化財の天敵は、地震や火事などもあるけれど、一番怖いのは「人の無関心」 人々の意識が向かなくなった時、文化財は荒廃する。 今「伝統文化と現代文化が切り離されていること」を危惧されています。
我々の仕事は
「建築は時代と共に変わるもの、建築の命をつなぐ手助けをすること」
古い建築を触らせてもらう時は、先人に対し敬意を払いたい。
                                 (平成26年1月31日 記)