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魚津弘吉とその仕事
            
略 歴
明治31年(1898) 名古屋市中村区で数奇屋大工、 魚津忠平の長男として生れる。
尋常小学校卒業と同時に父の もとへ弟子入りする。
大正10年(1921) 第三中学(現愛知学院)の移転工事を請ける。
大正15年(1926) 日泰寺大書院鳳凰台完成
昭和4年(1929) 永平寺大光明蔵完成
昭和7年(1932) 藤山雷太邸日本家完成
昭和9年(1934) 高野山金剛峰寺金堂完成
昭和15年(1940) 熱田神宮神楽殿
昭和57年(1982) 1月17日永眠 享年84歳

棟梁 魚津弘吉

 魚津弘吉は明治31年(1898)8月26日、大工であった魚津忠平の長男として、現在の名古屋市中村区に生まれた。父・忠平は明治初年に富山県滑川から名古屋に移り、町家大工として仕事をしていたと言う。
 弘吉は尋常小学校を終えると同時に父のもとで修行する。大正9年兵役除隊後に曹洞宗の中学校、第三中学(現愛知学院)の移転工事を通じて曹洞宗高顕寺(名古屋市中区橘)の住職、山田奕凰老師にその腕と器量を見込まれ、覚王山日暹寺(現日泰寺)の大書院鳳凰台の新築工事を任される。それまで父のもとでは経験の無い大きな仕事だった。鳳凰台の建築は大規模なだけでなく、途中から工期短縮という難問が出されたがなんとか成し遂げ、こうした魚津の仕事に対する態度と技術を認めた山田師はさらに曹洞宗本山である、永平寺の大光明蔵の仕事も魚津に任せた。以来、現在まで曹洞宗関係の寺院とご縁が多いのである。
 永平寺大光明蔵の仕事では、当時京都帝国大学の武田五一教授に教えを請うことになった。武田教授は当時、日本建築界の大御所ともいうべき人物であり、魚津は10回訪ねてようやく会うことがかなった。そして武田五一のもとで仕事をすることによって社寺建築の学問的知識を吸収し、技術的にもさらに大きく成長した。昭和4年に永平寺大光明蔵を完成させ、武田の信頼を得た魚津は、引き続き高野山金剛峰寺金堂の仕事に起用される。これらの仕事を終わらせた昭和9年、若干34才であったが、青年棟梁として脚光を浴びることになる。また魚津は、永平寺大光明蔵完成後、浄財を出した人々に対して報告するという名目で、昭和5年3月に「大光明蔵建築図集」を自ら出版する。若き棟梁としての魚津の意気込みが感じられる。伝統を重んじるこの世界で、日泰寺、永平寺、高野山の仕事をしたという事実が、社会的信用を高めるという役割を果したと言える。
 魚津は仕事の責任について「真心で建てよ。単に頼まれたからやるというだけではなく、頼まれなくてもやらねばならないことはたくさんある。特に建物に関しては死ぬまで面倒を見て行かねばならない」と言い、自分の手がけた建物を常に意識し、出来るだけ見て回るようにしていた。

魚津の挑戦

 魚津は従来のものを工夫し、新しいものへ挑戦することも大事にした。彼は早い時期から伝統的和風建築に鉄筋コンクリートを応用した。彼の手がけた鉄筋コンクリート造の社寺建築として、高野山金剛峰寺金堂(昭和9年)、部分的に使用した例として熱田神宮神楽殿(昭和15年)、藤山雷太邸(昭和7年)などがある。こうした新しい材料に関心を持ったのも、日泰寺鳳凰台の大架構を手がけ、見事に完成させた経験がきっかけになったと 思われる。日泰寺大書院鳳風台は魚津にとって最初の大きな仕事であるが、朝日ノ間48畳、桜ノ間40畳とおよそ全体で200畳もあろうかという大書院に床の間等を除いて壁なるものが極めて少ない。それにもかかわらず、戦時中の三河地震などいくつかの地震に対しも被害を受けなかったのは、工事中に構造的な弱点に気づき、臨機応変に南側の戸袋の中に筋違いを入れるなどの補強をしたためである。


 また、大規模な建築への挑戦とともに新しいものの創造という面でも本領を発揮した。資材業者が発明したと言って持ち込んだ新しい材料を使うことも珍しくなく、全く新しい材料や工法に興味を示し、工夫を凝らして使ってみるあたりに魚津の特質を見ることができる。
 世間では明治以降、日本の様式・技術が研究され、成果が現れる大正期に入ると、西欧流の建築教育を受けた設計者達が、和風建築をも手がけるようになる。特に戦後は、伝統様式を簡略化した設計が多くなる。そのような流れの中にあっても、魚津はあくまで伝統的様式を守る棟梁であった。伝統的な和風木造建築の様式を否定することなく、前様式を踏まえてその上に新しい材料・構造を駆使し、自らの建築を作り出している。

魚津弘吉の作品



■ 大本山永平寺大光明蔵 ■

 永平寺は寛元2年(1244)に道元禅師によって開創された参禅道場である。大光明蔵は貫首の公式対面の建物で、 永平寺の中でも豪華な書院造として知られている。規模は総計125坪と雄大である。桁行7間、梁行5間、単層入母屋造、桟瓦葺で、西側屋根に千鳥破風がつき、その下に唐破風が重なり、ここを玄関とする。内部は中央に126畳の大広間、正面に12畳の上段の間を設け、その左右に各8畳の脇の間を持つ。これらの3方に幅9尺の入側をめぐらし、さらに巾4尺5寸の高欄付浜縁を付したものである。木材は尾鷲の山林から切り出した檜を用いた。大体の木造りを名古屋で行ない、汽車でそれを運搬、昭和3年8月に永平寺にて立柱式を行ない、翌4年12月に竣工した。書院造であるが全体として過度の装飾を避けているだけに、かえって気品を高めたものとなっている。永平寺としては桃山時代のもののように、彫刻のついた華美なものを要求してきたという。これに対して武田五一の教示もあり、二条城の書院に劣らず西本願寺の鶴の間を参照して、華美を押えて出来上がったのが大光明蔵である。

■ 高野山金剛峰寺金堂 ■

 高野山は弘法大師が開いた真言密教の霊場として有名である。そして伽藍には御影堂、鐘楼など多くの建物がある中で、この金堂が一際その大きさを誇っている。高野山金堂は創建以来たびたび焼失していたが、弘法大師1100年御遠忌を記念して7度目の再建が計画された。昭和元年に焼失した金堂は前後に唐破風の向拝がつけられ、彫刻が充満する総欅造りの建物であった。再建金堂には3年の年月を要し、昭和9年に竣工した。
 主構造を鉄筋コンクリートとしたが、斗?、丸桁、化粧垂木などは高野檜を用いた木造で、外観は伝統工法を踏襲した木造建築そのままである。間取りは内陣と外陣、向拝は前後2ケ所あり、軒下に高欄のついた浜縁を四方に廻す。内、外陣をめぐる26本の柱と大須弥壇は金箔張りである。さらに、内外陣を仕切る菱格子は緑であり、正面扉は黒漆塗という豪華なものである。

■ 藤山雷太邸 ■

 藤山邸は藤山財閥の本拠、東京芝白金に武田五一の設計により建築された邸宅で、イギリス風の本館、桃山時代の書院風を加味した日本家、茶室の三棟からなる。昭和5年に着工、昭和7年5月完成した。
 藤山邸の間取りは書院付の17畳の客間、12畳の客間と並び、北側にはそれぞれ次の間がつく。東側は仏間と書斎が置かれ、東側を除く三方には広縁がつき、南側には入側を附す。造作材は主に木曽檜を使い、全てが無地である。瓦は泉州産を使用し、下屋庇銅板を使用している。内部では、天井を折り上げ格天井とし、格子は黒漆で塗られ、天井、壁は鳥の子貼り付けのうえに金砂子仕上げとしている。また、室内各所にある杉戸には、それぞれ極彩色の絵が描かれている。襖はゼイチン椽取り、引き手は鹿革の古式に従った豪華なものである。三階建ての塔は藤山家の収蔵庫であり、一、二層は鉄筋コンクリート造である。三層は欄干を廻した居室となっており、屋根は宝形である。現在は名古屋市御器所の曹洞宗寺院、龍興寺の書院として現存する。

文化財移築工事




 魚津は新しいものを作るばかりでなく、文化財の移築も行なっている。その最大のものは名古屋工業大学名誉教授の城戸久の指導のもと昭和27年から20ヶ月をかけた重要文化財名古屋城東南隅櫓の移築工事である。また日泰寺に茶室が欲しいという時も尽力し、長栄寺(曹洞宗・中区橘)にあった草結庵を移築した。
 草結庵は江戸時代後期に活躍した名古屋の茶人、高田太郎庵源良斉のすすめで建てられたものである。移築後の昭和38年、愛知県の文化財に指定された。
 また、武田五一の設計で、魚津弘吉が棟梁として完成させた東京・白金の藤山雷太邸の保存にも取り組んだ。藤山邸は当時として「金に糸目をつけずに造った」といわれる豪華なものであっただけに、関係者は記録だけでも残そうと運動を始める。これを聞いた魚津は城戸久に相談し、近い将来文化財になるものだという保証を得た。そうして昭和51年に名古屋市御器所の龍興寺(曹洞宗)へ移築され、昭和54年6月、作者存命のうちに愛知県の文化財に指定された。
 これもまた自分の関係した建物の面倒を見るという一つの表われであろう。かくて魚津は武田五一の恩にも報い、世話になった曹洞宗に対して文化財指定の世話をしたことになり、そして自らも報われるということになったのである。

魚津弘吉の心を受けて

 魚津弘吉は、常に「真心で建てよ」、「やってやれないことはない」、「施主に対しては徹底した姿勢で臨む」、「新しいものへの挑戦」と言っていた。それは今も残る彼の手掛けた建物を見て知ることができる。
  魚津の仕事はそれぞれに難題を抱えた工事であったが、どれも全力を尽くして成功させている。例を挙げると、昭和10年、中国漢口に神社造営する際も、進んでこの困難な仕事を引き受け、再建にも内務省神祇局から特命で工事を請ける。昭和15年の熱田神宮神楽殿では、時節柄の資材不足もあって工事は困難を極めたが、期日までに間に合わせた。さらに機能的な要請に対しても工夫し、長靴を履いた軍人の参拝に配慮し、半分を畳敷き、半分を土足可能な板張りとした。施主の要求を様式建築ということで拒否せず、柔軟な発想で解決したのである。近年の仕事では名古屋能楽堂、永平寺妙高台・接賓、鶴岡八幡宮などがあり、どれも魚津の心をそのまま伝えた本流の仕事である。
 戦後の苦境を乗り越え、現在もなお厳しい情勢の中で、魚津弘吉亡き後、23年の年月を経てこうしてあるのも初代からの教えを心に留めて一筋に励んできたからであると思う。
 近年における「新しいものへの挑戦」は、日本大学石丸研究室との耐震技術開発がその一つである。予想される東海大地震に備えて、歴史的建造物を後世に伝えるための耐震補強技術の確立が望まれる中、わが社の技術をより確実なものにすることが課題である。
 晩年の魚津は「ひとたび恩を受けたら生涯忘れるな」と言っていた。魚津の人生を決めた二人の人物、山田奕凰老師と武田五一教授をはじめ、日泰寺前代表水谷教章老師、永平寺元監院加藤黙堂老師、内務省神祇局角波隆氏に対しては、感謝の想いを常に口にしていた。
 また、妻 綾子とその兄嫁の加藤すえ様には、資金面で多大なる援助を受けたおかげをもって、今日の魚津があるのであって、心より感謝する。
 最後に父である前に一人の建築事業家として魚津弘吉を語ったため、文中の呼称をあえて魚津とした。

平成17年1月16日 魚津源二 記

魚津社寺工務店 代表作品 (昭和〜平成)


中国漢口 漢口神社 昭和13年


高野山金堂 工事中新聞記事 昭和15年


熱田神宮神楽殿 昭和15年

鶴岡八幡宮斎館 平成6年


五色山大安寺 平成10年


永平寺接賓 平成12年


鶴岡八幡宮札所 平成15年


景行天皇社 平成9年




名古屋城能楽堂 平成12年


大光院 平成15年


旧川上貞奴邸 平成16年